「腰巻地蔵と、首くくりの松の話 湖畔青楼の話」

その1 湖畔青楼の話


 T県……と言っておこう。幸い、頭文字がTの県名はいくつかある。だからこそ、J県、R県といった、明らかに架空の地名を作るよりよっぽど穿鑿(せんさく)好きの読者を煙に巻くことが出来ると思う。徳島、栃木、場合によっては東京といった県名を一々挙げて私に尋ねても無駄であるし、逆に青森だの岡山だのTを避けた名を挙げても結果は同じだ。私はあくまでこう言おう。あの奇妙な一夏を経験したのは、T県でのことであると。

 当時、私は大学3年生だった。学生の夏休みといえば、アルバイトの為にあるようなもので、私の周囲では盆の親戚づきあいより短期のまとまった金を選ぶ人間の方が多数派だった。私の仕事は、水力発電施設での留守番だった。勿論、機械とは関係ない寮の管理である。盆休みということで、必要最低限の人員を残し大半の職員は下山する。夏の留守番はほぼ近隣出身でそこから通う。そうでない不運な者も、あまり宿舎には戻ってこない。つまり、私は掃除と空気の入れ替え、飯と味噌汁程度の炊事、これらに加え電話のベルの音量が許す限りの範囲で、静寂と自由が保障されていた。
 その年の宿舎居残り組は、尾久さんという人だった。30になるかならずの気さくな人で、本社から出向という形になっていたが地元出身の人たちともうまくやっており、「オクやん、どうだ、いい子を紹介するぞ」と言った趣旨のことを、いかにも土地の人らしい陽気で野卑な言葉で言われていた。

「じゃあ、佐久間くん。後は頼む。夕方から強風域に入りそうだがら、戸締り気をつけて。僕は野田さんたちと一緒に管制室に閉じこもりっきりになるから、飯は気にしなくていいぞ」
「分かりました。尾久さんも気をつけて」
「ああ。行って来ます」

 地元民の野田さんが運転する軽トラの荷台に乗って、尾久さんは私の方に大きく手を振った。それから、何かに気づいた野田さんのクラックションで前を向くと、そちらにも手を振った。それは、高瀬さんと松川だった。

高瀬さんは大学を卒業した後、県の文化局に入った人で、県史編纂を手伝っていた。郷土史家や研究者からの原稿取立て、誌面編集、販売促進の広告から、原稿料の勘定に至るまで、全部が高瀬さんの仕事らしい。今回は執筆依頼の先生に代わって資料の収集に来ている。松川は私と同い年で大学生。臨時職員という身分で、尾久さんの助手のようなことをやっている。この夏限定のアルバイトだ。

「台風が近づいているって、コイツが言うもんでね」
 高瀬さんはニカっと笑いながら、リュックにくくりつけたポータブルラジオを指差した。昨日の時点で台風7号は予想進路を外れ、こちらに向かってくる可能性があることを示唆していた。
「念のため、窓ガラスの目張りをしておこうか」
「そうですね。尾久さんも戻ってこないそうですから。その方がいいでしょう」
「松川くん。手伝うぞ」
「はい」
「すいません」
「なぁに、一宿一飯のナンとやらってやつさ」

 高瀬さんと松川は下流の集落から調査を進めてきており、ここが最後の調査拠点となっていた。予定では今週末、遅くとも来週の中ごろまでに周辺集落と今はダムの湖底に眠る芦刈集落、そして湖畔に立つ崩れかけた和洋折衷の建物について調査をするらしい。

「あそこは、材木王と呼ばれた平田甚五郎(ひらたじんごろう)が建てた別荘だったんだよ。丁稚上がりで、立志伝中の人物というヤツさ」
 高瀬さんは熊男とでも言った雰囲気の髭面で、ニヤリと笑った。
「それにしても、また。エライ所に別荘を建てたもんですね。交通の便も悪かっただろうに……」
「まったく、エライ建て方をしたもんさ。……と言っても、便不便がどうこうと言うのじゃない。この建物はねぇ、ここにダムが建ってから、わざわざ移築されたんだよ」
「建ってから」
「そう。他にも風光明媚な土地は選び放題だというのにね。しかも、あの和風建築の部分は何だったと思う?青楼さ」
「セイロー?」
「つまり、遊郭だよ」
 私はわけも無くゾクリとした。

「外から見た限りじゃ分からないが、随分悪趣味なものを建てましたね」
 高瀬さんはしばらく私の顔をまじまじと見ていたが、ふむを一声唸ると口を開いた。
「佐久間くん。君はこの辺りの歴史や伝説といった類に詳しいかい?」
「いいえ」
 私には、彼が何故急にそのような質問をしてきたのか分からなかった。
「つまり、君のような事情を知らない人物でも、何がしかの禍々しさを感じるわけだね」
「はあ?」
 私は高瀬さんの意味ありげな態度が気になったし、また松川が何となく別荘の方を見ないようにしているのが分かった。

「もう大分前方の話になるが。このダムに沈んだ芦刈集落はね……お女郎村と呼ばれていたそうだよ」

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→第壱話


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